天津神社境内での奉納舞楽  2004.4.11

伝統芸能祭
2003.11.30  きららホール

舞楽をみる機会に恵まれました。410日〜11日の糸魚川の天津神社のけんか祭りで。また424日能生の白山神社でそれぞれ年一回奉納されるもので国指定の重要無形文化財になっています。全曲ではありませんが、両方一緒に見られるのは初めてのことだとか。主になっている稚児舞のお稚児さんがとても可愛らしく4時間という長い時間でしたが堪能してきました。文章はパンフレットの説明文から丸写しです。

天津神社

天津神社の舞楽は、俗に「稚児の舞」とよばれているが「大人の舞」もあり、ともに特色があり美しいものである。外来舞楽が日本化されて今日の宮廷舞楽が出来上がっているが、天津神社の舞は、この平安朝風宮廷舞楽でもなく能楽全盛期の室町風とも異なり、敢えて言えば鎌倉風とでも言うことになる。神楽や田楽ともまた風流踊りとも趣を異にして、能や風流出現以前の舞楽的な世界にあって創作された日本の舞であろうと言われる。

 

鶏冠(けいかん): 鶏冠をかぶり、胡蝶を背負い、菊の花を持って舞う。
4人の稚児が花に遊ぶ蝶のように平和で美しい。

安摩(あま): 南方伝来の林邑楽とされ、面帽も面も装束も
異国風で手にバチを持ち、
46歳の稚児が舞う

抜頭(ばとう) 奈良時代に南方より伝来
した林邑楽と言われ、父
の仇の猛獣を捜し求め、
格闘の末討ち取り、喜び勇んで山を下る様を
表すという。


太平楽(たいへいらく): 優雅で可憐な武人の装束で舞い、その名のとおり、
乱世を治め、正しい道に直すという意味を表すめでたい舞である。





陵王(りょうおう): 赤地金襴の面帽子に竜頭、吊顎の面をつけ、
豪壮な
装束に緋房のついた細い金色のバチを持ち、落日に舞う。




白山神社

舞楽は78世紀頃アジア大陸の各地からわが国に伝わり、宮中の行事や寺院の法会などで催されていた。初めはそれぞれ固有の民俗様式をもっていたと思われるが、平安時代の初期に日本風に整理統合され、唐楽を伴奏とする中国系の左方(紅系の装束)、高麗楽を伴奏とする中国系の右方(緑系の装束)と呼ばれる今日の舞楽の限界が形づくられた。鎌倉時代になり衰退した舞楽は次第に地方に分散し、その地方の民俗芸能と混在した形で定着、著しく地方化して独特の芸能となって伝承されてきた。能生の舞楽も大阪の四天王寺の舞楽の一部が伝承され、重要無形民俗文化財として各方面から注目されており、陵王をはじめ12曲の装束は持ち物、舞振りなどは地方化されているものが見られる。



振舞(えんぶ): 圧勝の舞で、悪魔調伏の祈を意味するものである。振舞は舞台祓いの意味で舞楽上演の際は必ず最初に舞うもので、左方舞と右方舞を同時に舞う。二人の稚児が舞台に出る時、橋懸りに童羅利が鉾を持って出て、各稚児に渡す。




弓法楽(きゅうほうらく):舞楽書には見当たらない舞である。稚児4人は弓を肩にし、矢を持つ右手を腰にして舞台に出る。舞台で矢を一本放ち、帰路橋懸りでもう一本の矢を放つ。



能抜頭(のうばとう): 
能楽書では抜頭という。舞の手は比較的
複雑で
相当の熟練を要する舞である。

   童羅利(どうらり): 
 舞楽曲目中には類似の名称がなく、
 唯舞振りなどから天津神社舞楽の
 「安摩」の系統かと推測される。

輪歌(りんが):手に花束を持って舞う優雅な舞である。装束は天冠に紫の狩衣、紫チリメンの差貰、持物は花束である。花束を指・肩・腰と3回ずつ手を変えて舞う。



陵王(りょうおう):装束は緋チリメンの狩衣に緋緞子の差貫、頭上に口を開いた龍を乗せた恐ろしい面に、赤の熊毛をつけ、中啓(扇)を持って舞う。中国北斉の蘭陵王長恭が、勇武ではあるが顔姿が秀美柔和で威厳が上がらないので獰猛な仮面をつけて戦に臨んだという故事によった舞であるといわれる。

陵王の舞は日没時に舞われるが、途中に「日招きの舞」という場面がある。




















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